以下の丸山林平「定本古事記」は、同氏の相続人より、SSI Corporationが著作権の譲渡を受けたものである。

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語拾遺の冒頭に、「上古之世、未レ有二文字。貴賤老少口口相伝、前言往行存而不レ忘。」とあるごとく、わが国の上古に固有の文字が存在していなかったことは、いまさら言うまでもないことである。かつて、江戸時代に、平田篤胤が「神字日文伝」という書を著わして、わが神代に固有の文字があり、「いろは」と同じく四十七字のものもあり、また出雲大社の左側文島窟中の石面に刻してあるものは、五十字であり、これを五十音順に読み、形は篆書に類し、また、数字もあるなどと説いた。
その後、越後の弥彦神社の瓦からも、神代文字を刻したものが発見されたなどという。しかし、これらは朝鮮の鳥文であろうとも、または偽作であろうとも言われ、全く荒唐無蔵な説であって、とるに足らぬものである。わが国に文字の伝来したのは、だいたいにおいて、朝鮮との交通の開けた以後のことであろうと信ずる。応神紀十五年八月の条に、

百済王、遣二阿直岐、(中略)阿直岐亦能読二経典。即太子菟道稚郎子、師焉。於レ是天皇、問二阿直岐一曰、如勝レ汝博士亦有耶。対曰、有二王仁者、是秀也。 とある。かくて、阿直岐の推薦によって、翌年に王仁が来朝している。同十六年二月の条に、 王仁来之。則太子菟道稚郎子師之、習三諸典籍於二王仁、莫レ不二通達。故、所レ謂王仁者、是書首之始祖也。

とある。これらの記事によると、応神天皇の十五年とか十六年とかに、初めて漢籍が伝来したというのではなく、それ以前に経典や諸典籍が伝えられていたのであり、それらの漢籍を、稚郎子が、阿直岐や王仁に就いて学ばれたというのである。日本書紀には、漢籍の名はしるされていないが、古事記の応神天皇の段には、和邇の貢上したのは、「論語十巻、千字文一巻、忸十一巻。」となっている。これらの記事が、はたして史実かどうかは疑問だとしても、とにかく、わが国に漢字の伝来したのは、だいたいにおいて、四世紀の終りか五世紀の初めごろと推定してよかろうと思う。もっとも、日本人が漢字を見ることのできたのは、さらに古いことであり、三世紀のころ、九州辺の豪族らが漢土と往来していたであろうことは、魏志などに徴しても明らかなことであるが、しかし、それをもって、ただちに漢字の伝来とは見られないから、とにかく、漢字の伝来は、上述のごとく四世紀の終りから五世紀の初めごろにかけてのことであろうと推測して、だいたい誤りではないようである。

では、漢字の伝来以前におけるわが古代の物語や歌謡の類は、いかにして伝えられたかというに、それは、古老などによって、口から口へと伝えられたであろうこと、古語拾遺の記事のとおりであろうが、さらに、わが古代にあっては、いわゆる語り部という口誦伝承を職とした部民があって、よく長い物語や歌謡などを暗誦して伝えたであろうと推測される。そのことは、項を分けて述べることとする。

て、漢字が伝来したとしても、わが国民が漢籍を読み、または漢字を用いて物を書くということは、決して容易なわざでなかったに相違ない。恐らく、帰化人の子孫または少数の貴族の子弟などに限られていたであろう。そして、上代において、史官となって、古来の物語や歌謡、または歴史や伝説などを記録したのは、初めのうちは、主として朝鮮またはシナからの帰化人、またはその子孫たちであったであろうことは、日本書紀の記事などに徴するも明らかなことである。
 
では、そうした帰化人またはその子孫たちが記録した古文献は、いつごろから始まったかというに、それらの古文献は、今日全く見るを得ないから、詳しくは知ることができないが、神代紀に「一書曰」「或書曰」「一曰」などと引用されているものは、恐らく、それらの古文献の断片であり、日本書紀撰修の当時には、まだそれらの古文献が残存していたであろうと推測されるのである。しかし、明らかに時代のわかるのは、履中紀、四年八月の条に、「始めて諸国に国の史を置き、言と事とを記して、四方の志を達さしむ。」とある。

のころになると、必ずしも帰化人の子孫たちだけではなく、邦人の手によっても記録されるようになったものと思われる。次に、推古紀、二十八年十二月の条には「是の歳、皇太子・島大臣、共に謀りて、天皇記および国記、臣・連・伴造・国造、百八十部、忸せて公民等の本記を録さしむ。」とあって、はっきりと邦人の手によって記録されていることを知る。皇太子とは聖徳太子のことであり、島大臣とは蘇我馬子のことである。
そして、皇極紀、四年六月の条には、「蘇我臣蝦夷等、誅せらゆるに臨みて、悉に天皇記・国記・珍宝を焼く。船史恵尺、すなはち疾く焼かゆる国記を取りて、中大兄に奉献る。」とある。次いで、天武紀、十年三月の条には、「天皇、大極殿に御しまして、川島皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連子首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大島・大山下平群臣子首に詔して、帝紀および上古諸事を記し定めしめたまふ。大島・子首、親ら筆を執りて録せり。」とある。かくて、元明天皇の和銅四年九月十八日に、太安万侶に命じて、稗田阿礼の誦習した帝皇日継および先代旧辞の類の偽りを削り、実を定めて撰録せしめ、翌五年(七一二)正月二十八日に完成したのが、すなわち「古事記」三巻である。そのことは、古事記の序文に明記してある。もっとも、専門の学術的立場などからは、いろいろと疑う説もあるが、本書の立場は、そうしたことにまでは立ち入らず、ただすなおに、古事記を正しく読むことを目的とするものであること、本書の「まえがき」に述べてあるとおりである。

て、前に述べた古記録の類は、すべて今は見ることができないから、ただ、われわれは、古事記を通して、それらの古記録の用語や文体を推測するだけである。ついでながら日本書紀の完成したのは、古事記におくれること八年、元正天皇の養老四年(七二〇)五月二十一日のことである。そのことは、続日本紀にしるされている。この書紀の撰修には、太安万侶が重要なる一員となっている。弘仁私記の序に、

夫日本書紀者、一品舎人親王、従四位下勲五等太朝臣安麻呂等、奉レ勅所レ撰也。

とある。本居宣長は、弘仁私記の言を疑っているが、それは、書紀には漢意による潤色が多いとして、安万侶の参加を、こころよく思わなかった感情論にすぎないであろう。安方侶は、きわめて学殖が深く、文才に富み、広く和漢の学に通じ、古事記を完成し、日本書紀の撰に預かっている。世には、古事記は呉音のみをもってしるされ、書紀は漢音のみをもってしるされているなどと説く者があるが、ひとしく安万侶ほどの学者が参加した書紀が、わずか八年の間に、がらりと呉音から漢音へと一変したなどとは考えられず、記にも呉音あり漢音あり、紀にも漢音あり呉音がある。この両書を子細に検討すれば、そのことは動かすべからざる事実である。(大島正健氏著「漢音呉音の研究」参照。)それらの事実は、本文において、具体的に立証するであろう。



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