以下の丸山林平「定本古事記」は、同氏の相続人より、SSI Corporationが著作権の譲渡を受けたものである。

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て、前項において述べた古記録の類には、長い物語や歌謡などがあるうえに、きわめて長々しい神名や人名などが多いが、これらは、漢字伝来以前において、物語られ歌われていたに相違ない。それらの記憶口誦は、漢字の伝来以後に記録されたと信ずるよりほかはない。そして、これらの長い物語や歌謡や神統や皇統などは、決して古老などの記憶口誦のみではあり得ず、語り部という専門的部民の存在を前提としなければ、考えることのできないものである。
 語り部は、文字の無い時代(Unlettered age)には、無くてはならぬ部民であり職業であった。それは、世界のいずれの古代においても存在し、かつ現代の未開民族の間にも存在している。W. Macneile Dixon の "English Epic and Heroic poetry" p.37~38は、古代の語り部(bard)について述べているが、その最後に、次のような一節がある。

In the memory of the bard, the only library of the age, are stored the fact and fable which make the history and religion of his people.
 

なわち、文字の無い時代にあっては、語り部の記憶が唯一の図書館であり、語り部の語る事実や伝説が、すなわちその社会の人びとの歴史であり宗教でもあったわけである。
 松岡静雄氏の「太平洋民族誌」(一六七頁)によれば、ポリネシア人の間には口碑伝説が忠実に保存され、氏族の系譜なども数十代の長きにわたって記憶され語られているとのことである。また、伊波普憫氏の「琉球古今記」(三一七~三一八頁)によれば、琉球には根取と称する一種の職業的歌謡者がいて、よく歌謡を記憶し、依頼に応じて、音頭をとり、かつ歌ったという。伊波氏の家に招いた根取は、全く文盲であり、八十幾歳の老婆であったが、よく三百二十行の長詩を暗誦していたという。また、金田一京助氏は「アイヌの研究」(四一頁)において、次のように述べている。

我が語り部の解釈││文献以前の社会に、国民伝説が必需な知識の凡てであったといふこと及びアイヌの社会の伝説伝承者の家系のことなどは、たまたま昔の語り部といふものの社会的意義及びその存立の可能を暗示するものではあるまいか。云々。

と述べ、さらに、

紫雲古津の詞曲伝承者が私に伝へた伝説が、一人で古事記の約数倍の量、一千頁に垂んとして、まだその暗誦する歌曲の全部ではなかったのである。(中略)だから、ギリシャのイリアッド・オディッセイや印度の吠陀だのマハバラータなどいふものが、文字に上される前、或年代の間、口づから伝承されたといふことも、今の人が考へるほど考へ難い事ではないと私には思はれる。

と述べている。

ころで、わが国における語り部についての研究は、あまり多く現われていない。重野安繹氏が「語り部の事を統輯せし書、未だ見当たらず。」と、「国史綜覧稿、巻一、語部考」で述べているように、江戸時代の学者で語り部の性質について組織的に研究した者は、ほとんどないと言ってよい。ただ、語り部が大嘗会の卯の日の儀式に奏したという古詞の性質について論じた断片的な意見が二、三散見するにすぎない。たとえば、平田篤胤の古史伝(巻十)、細井貞雄の姓氏考、鈴木重胤の中臣寿詞講義(上巻)などが、それである。和名抄やその他の辞書類にさえ、「かたりべ」の語が載っていないほどである。

かるに、明治以後になって、古代研究の熱が高まり、したがって、古伝説の唯一の伝承者と目される語り部についての組織的研究者が、ぞくぞくと現われて来た。中でも、重野安繹氏の「国史綜覧稿」のごときは、博引旁証、組織的科学的であって、恐らく、今日までに現われている語り部の研究としては、白眉とさるべきものであろう。ただし中には、必ずしも首肯されない点もあるが、くわしくは同書について参照されたい。黒川真頼氏は、「日本書紀を読む心得」の総論「語り部」の項で、語り部を上古における教師であるとし、口授学を家業とする部民であると述べている。津田左右吉氏は、「古記事及日本書紀の研究」において、語り部のことを論じているが、氏は一種の語り部否定論者である。それは、語り部なる部民の存在は、なんら記紀に見えず、ただ貞観儀式や延喜式などに見えているが、それは単に朝廷の儀式の際に古詞を奏するという役目をしているだけであって、上古において、史伝や伝説を物語る部民ではないと述べている。安藤正次氏は、「古事記解題」の「語り部考」において、語り部の存在をきわめて上古と見、それはむしろ文字以前において存在し、また存在の意義のあることで、文字の使用の広まるにつれ、語り部は部族的に衰滅したものと見ている。かの大嘗会の儀式に当たって、語り部が古詞を奏したがごときは、全く語り部の余風尊重のためであろうとし、天武朝のごとき文化の進んだ時代に、しかも中央もしくは朝廷において、語り部が古事を口誦したなどというようなことは、とうてい信じ得べからざることだと論じている。

のことは、古語拾遺に、「書契以来、不レ好レ談レ古、浮華競興、還嗤二旧老。」とある所論と軌を一にする。わたくしは、安藤氏と全く見を同じくするものである。すなわち、語り部の衰亡は、正倉院文書の天平十一年、出雲国大税賑給歴名帳に多くの語り部の名をあげて、鰥または寡のため、自活する能わずとしるしていることなどでも明らかである。世には稗田阿礼が語り部であるなどという人もあるが、すでに帝紀や旧辞のごとき記録の存在しているのに、それをわざわざ、文字をはなれて暗誦する必要がどこにあろうか。記の序文に存する「勅二│語阿礼、令レ誦二│習帝皇日継及先代旧辞。」の「誦習」を、記伝のごとく暗誦の意に解すべきではないと思う。それは、定めし漢文とも和文ともつかない文体であったに相違ない帝紀や旧辞の文章を、「度レ目誦レ口、払レ耳勒レ心」ところの秀才阿礼に、読み習わせたということであろう。すなわち、語り部は漢字の伝来またはその直後まで存在した部民であり、その部民の口誦伝承が、次第に文字に移されたのであると信ずる。そして、古事記は、その文字に移されたところの古記録を整理して編したものであると信ずる。



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