以下の丸山林平「定本古事記」は、同氏の相続人より、SSI Corporationが著作権の譲渡を受けたものである。

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事記の伝本のうち、主なるものを次に掲げる。括弧内は、本書において、校異の際に用いた略称である。

真福寺本 三巻(真本) 現存の古事記伝本のうち最も古いものであり、尾張国、今の愛知県名古屋市の真福寺の僧賢瑜(当時二十七~八歳)が、応安四~五年(一三七一~一三七二)に書写したものであり、国宝に指定されている。足利義満の時代であるが、室町時代というよりは、むしろ吉野時代の末期に当たる。この若い僧は、全然古事記が読めなかったらしく、ただ祖本を盲目的に書写したにすぎず、その際に、おびただしい誤写を犯し、そのうえに脱字・衍字などがきわめて多く、まことに天下の最大悪本たる観を呈している。一、二の例をあげると、序文では「皇帝階下」などと誤写している。明治ごろなら、さしずめ不敬呼ばわりをされたことであろう。本文では、「須」を「鋼」に、「裳」を「禹」に、「鬘」を「縵」に、「靫」を「靱」に、「劔」を「釼」などに誤写し、その他、脱字・衍字の類は枚挙にいとまなく、中には何のことかさっぱり見当もつかないような部分が、すこぶる多く混じている。ただ、古い写本であるということで、国宝になっているまでのことである。しかし、古い写本であるだけに、参考になる点がなくはない。わたくしは、真本の用字のうち「豐」などは、古写本や延佳本や書紀などの用字と同じであるから、記伝の「毘」には従わず、真本の「豐」に従うことにしている。宣長も、記伝において、次のように述べている。

尾張国名児屋なる真福寺といふ寺、〔俗に大洲の観音といふ〕に、昔より伝へ蔵る本を写せるを見るに、こは余の本どもとは異なる、めづらしき事もをりをりあるを、字の脱ちたる誤れるなど、殊にしげくぞある。
 

道果本 上巻(道本) 僧道果が永徳元年(一三八一)に書写したもの。これまた、真福寺本とひとしく、誤字・脱字・衍字などが、はなはだしく、全く信をおけない写本である。

道詳本=伊勢本 上巻(詳本) 応永三十一年(一四二四)

春瑜本=伊勢一本 上巻(春本) 応永三十三年(一四二六)

猪熊本 上巻(猪本) 室町末期か。

兼永自筆本 大永二年(一五二二)=童範写=前田家本 三巻(前本)慶長十二年(一六〇七)

寛永板本 三巻(寛本) 寛永二十一年(一六四四)刊。板本であるだけに、最も広く流布されているが、記伝に、「字の脱ちたる誤れるなど、いと多く、又訓も誤れる字のままに附けたる所は、さらにもいはず、さらぬ所も、凡ていとわろし。」とあるごとく、かなりの悪本である。

延佳本 三巻(延本) くわしくは「延佳神主校正、鼇頭古事記」といい、伊勢外宮の権斑宜、度会延佳が校注を施して、貞享四年(一六八七)に刊行した書である。この書において、はじめて古事記の善本を見るに至った。延佳は、ある意味においては、宣長にも匹敵すべき国語学者であり、諸本を校合して本文を定め、片かなで訓を施しているが、延佳は、まだ、宣長のころの国学者の悪風には染まっていず、「豐古」「豐売」などを「ヒコ」「ヒメ」と訓じ、「角」「野」「楽」などを「ツノ」「ノ」「タノシ」などと正しく訓じている。また、頭注には、「開疑聞之誤」とか「弘仁私記序云」とか「旧事紀云」、「日本紀云」、「万葉集云」、「神名帳云」、「姓氏録云」、「和名鈔云」、「延喜式云」、「諸陵式云」などとしるし、その学殖の深さを示している。しかるに、宣長は同郷の先学延佳を、どういうものか蔑視して、記伝で次のように述べている。

今一つは、其の後に伊勢の神宮なる、度会延佳てふ人の、古本など校へて改め正して彫らせたるなり。此はかの脱ちたる字をも誤れるをも、大かた直して、訓もことわり聞ゆるさまに附けたり。されど又まれには、己がさかしらをも加へて、字をも改めつと見えて、中々なることもあり。此の人すべて古語をしらず、ただ事の趣をのみ、一わたり思ひて訓めれば、其の訓は、言も意も、いたく古にたがひて、後の世なると漢なるとのみなり。さらに用ふべきにあらず。云々。

この批評は酷にすぎる。もちろん、今日から見れば、延本にも誤りがないとは言わぬが、わたくしは、むしろ延本にこそ拠るべき点が多いと信じている。その具体的な例は、本書の校異の箇所において述べることとする。

訂正古訓古事記 三巻(底本) 本居宣長著、寛政十一年(一七九九)刊。わたくしは、この書を底本としたので、略称を用いずに「底本」と呼ぶ。この書は、宣長が三十余年の歳月を費して完成した「古事記伝」に基づき、さらに本居太平の厳密なる校正によって刻せられたものである。記伝の完成したのは寛政十年であるから、その翌年に刊行されたものである。文字も訓も、ほとんど記伝のままであるが、まれに記伝と違うところもある。たとえば、記伝で「建内宿斑」と訓じているものを、この書では、初めのうちは記伝と同じく訓じているが、のちには「タケシウチノスクネ」と訓じている。なるほど、記の「建」(健の省字)も、紀の「武」も、「タケシ」「タケル」などと読むべき文字ではあろうが、その語幹をとって「タケ」と読んでよく、記の「倭建命」、紀の「日本武尊」などの「建」「武」も、「タケ」と読みならわされているし、その御名代なども「建部」「武部」と称している。そのほかにも、記中「建」を「タケ」と訓じている箇所が多いから、やはり記伝の訓のごとく「タケウチノスクネ」がよいであろう。また、文字では、この書は例外なく「无」を「旡」に、「刺」を「剌」に、「肖」を「揩」に、「橋・梯」を「椅」に誤るなど、旧来の誤写をそのまま踏襲している。しかし、これらのことは、ごく些細な問題であるが、記伝に基づくこの書は、記伝の誤訓をそのまま用いているので、実におびただしい誤訓を生じている。

そして、その主なるものは、実に字音仮名の訓法にある。このことは、項を改めて述べるが、記伝以後、多くの人びとは、記伝の誤訓に盲従して今日に至っている。字訓にしても、「野」「角」「篠」「楽」などを、この書はすべて「ぬ」「つぬ」「しぬ」「たぬし」などと誤訓しているが、これらは、橋本進吉氏らによって訂正されている。この点では、かえって延本の方が正しく訓じていること、上にも述べてあるとおりである。が、とにかく、宣長の畢生の大研究たる記伝に基づくこの書は、何といっても、最も権威とさるべきものであること、言をまたぬ。

山田本(山本) 山田以文校訂、天保六年(一八三五)刊。古訓古事記と大同小異。とりたてて言うほどのものではない。

下、江戸時代末期から明治・大正・昭和にかけて、旧京都学習院の「学習院本」、三国幽眠の校注本、田中頼庸の校訂本、本居豊頴・井上頼圀・上田万年共編の校定本、田中嘉藤次の校異集成本その他、すこぶる多く出ているが、すべては古訓古事記と大同小異であり、字音仮名・字訓仮名など、ほとんどすべて古訓古事記の誤りを踏襲しているにすぎない。ところが、近来、最も誤りの多い真本を底本とする傾向が生じている。たとえば、「新訂増補国史大系」の「古事記」や倉野憲司氏編「校本古事記」などがそれであるが、これらの書は、底本のおもかげを残そうとしてか、多くの誤字や偽字、衍字や脱字等を、ほとんどそのまま転載している。われわれは、すでに、古事記の正しい本文を決定すべき時機に到達していることを痛感する。



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