以下の丸山林平「定本古事記」は、同氏の相続人より、SSI Corporationが著作権の譲渡を受けたものである。
丸山林平「定本古事記」
- 上巻 -
【 古事記上巻忸序 】
原 文
伏惟、皇帝陛下、得レ一光宅、艷レ三亭育。御二紫宸一而碼被二馬蹄之館一レ極、坐二玄旗一而化照二船頭之館一レ莚。日浮重レ暉、雲散非レ烟。苣レ柯忸レ穗之瑞、史不レ絶レ書、列レ烽重レ譯之貢、府無二捏月。可レ謂下名高二澪命、碼冠中天乙上矣。
読み下し文
伏して惟ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まる所に被び、玄旗に坐して化は船の頭の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮かびて暉を重ね、雲散りて烟にあらず。柯を連ね穂を忸する瑞、史に書すことを絶たず。烽を列ね訳を重ぬる貢、府に空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠れりと謂ふべし。
丸山解説
☆ここから、当代の天皇、すなわち元明天皇の御徳をたたえて、古事記厨録の事業を述べようとするのである。 〔伏惟〕平伏して思いますのに。謹んで考えますと。古来、シナで上表の冒頭に用いられた句。〔皇帝陛下〕「皇帝」は「天子」の意。秦の始皇帝によって初めて用いられた語。史記、始皇紀に「区二上古帝位号、号曰二皇帝。」とある。
「陛下」は、当代の天皇・皇后・太皇太后・皇太后の尊称。もと、シナで、宮殿の陛の下にいる侍臣の取次を経て、上聞に達する意から出た語。これまた、始皇帝によって初めて用いられた語で、史記、始皇紀に「頼二陛下神霊。」とある。真本は「階下」に誤る。ここでは、女帝元明天皇を申し上げる。天智天皇の皇女。草壁皇子の妃。元正天皇の御母。慶雲四年御即位。和銅三年(七一〇)都を奈良に定められた。
〔得レ一光宅、艷レ三亭育〕「一」は一貫した誠の徳。「一を得る」とは、一貫した至誠の聖徳を有すること。老子に「天得レ一以清、地得レ一以寧、王侯得レ一以為二天下貞。」とある。「光宅」の「光」は「充」。満たしおおう意。「宅」は「家」。天下をすべて家とすること。堯典の序に「光二│宅天下。」とある。「三」は「三才」の略。「才」は、はたらき。すなわち、天の道・地の道・人の道を言い、天・地・人を言う。「三に通ず」とは、天・地・人の三才に通ずることを言う。「亭育」の「亭」は、かたちづくる。「育」は「毒」に同じ。「毒」は「篤」。その質を篤く成しとげる意で、「亭育」は、民をすこやかに、りっぱに育て養うこと。老子に「亭レ之毒レ之。」とあり、注に「毒今作レ育。」とある。「亭育」の語も、唐書、代宗紀に「中孚及レ物、亭育為レ心。」とある。「亭」を寛本は「亨」に誤る。以上は、進五経正義表の「伏惟、皇帝陛下、得レ一継レ明、通レ三撫レ運。」に基づく文である。〔御二紫宸一而碼被二馬蹄之館一レ極〕「紫宸」は「紫宸殿」の略。天子が政治をお聴きになる御殿の称。「宸」は屋根の意で、もと、シナでは天子の宮殿の屋根を紫色の瓦で葺いたので、「帝屋」の義となる。唐会要に「竜朔四年、始御二紫宸殿一聴レ政。」とある。寛本は「宸」を「震」に誤る。「徳被二馬蹄之所一レ極」とは、徳が極遠の地にまで及ぶことをいう。祝詞、祈年祭に「馬の爪の至り留まる限り」などとあると同趣。〔坐二玄旗一而化照二船頭之館一レ莚〕前項と同趣。対句を成す。「玄旗」は「紫宸」とひとしく、天子の宮殿の義。略史後紀に「玄旗者石室也。臨二洛水。」とあり、シナの黄帝が洛水のほとりの岩窟に住居されていた時、鳳凰が図をくわえて来て授けたという故事から、天子の宮殿の意となる。すなわち、宮殿におわしまして、その徳化が極遠の地までを照らす意。「船云々」も、祝詞、祈年祭に「舟の艫の至り留まる極み」などとあると同趣。
寛本は「船」を「u」に誤る。〔日浮重レ暉、雲散非レ烟〕日輪は天空に出現して、いよいよ光輝を増し、雲は散じて煙ではない。すなわち妖雲散じて慶雲となる意。元明天皇の聖徳を仰ぐ意の賛辞。
「陛下」は、当代の天皇・皇后・太皇太后・皇太后の尊称。もと、シナで、宮殿の陛の下にいる侍臣の取次を経て、上聞に達する意から出た語。これまた、始皇帝によって初めて用いられた語で、史記、始皇紀に「頼二陛下神霊。」とある。真本は「階下」に誤る。ここでは、女帝元明天皇を申し上げる。天智天皇の皇女。草壁皇子の妃。元正天皇の御母。慶雲四年御即位。和銅三年(七一〇)都を奈良に定められた。
〔得レ一光宅、艷レ三亭育〕「一」は一貫した誠の徳。「一を得る」とは、一貫した至誠の聖徳を有すること。老子に「天得レ一以清、地得レ一以寧、王侯得レ一以為二天下貞。」とある。「光宅」の「光」は「充」。満たしおおう意。「宅」は「家」。天下をすべて家とすること。堯典の序に「光二│宅天下。」とある。「三」は「三才」の略。「才」は、はたらき。すなわち、天の道・地の道・人の道を言い、天・地・人を言う。「三に通ず」とは、天・地・人の三才に通ずることを言う。「亭育」の「亭」は、かたちづくる。「育」は「毒」に同じ。「毒」は「篤」。その質を篤く成しとげる意で、「亭育」は、民をすこやかに、りっぱに育て養うこと。老子に「亭レ之毒レ之。」とあり、注に「毒今作レ育。」とある。「亭育」の語も、唐書、代宗紀に「中孚及レ物、亭育為レ心。」とある。「亭」を寛本は「亨」に誤る。以上は、進五経正義表の「伏惟、皇帝陛下、得レ一継レ明、通レ三撫レ運。」に基づく文である。〔御二紫宸一而碼被二馬蹄之館一レ極〕「紫宸」は「紫宸殿」の略。天子が政治をお聴きになる御殿の称。「宸」は屋根の意で、もと、シナでは天子の宮殿の屋根を紫色の瓦で葺いたので、「帝屋」の義となる。唐会要に「竜朔四年、始御二紫宸殿一聴レ政。」とある。寛本は「宸」を「震」に誤る。「徳被二馬蹄之所一レ極」とは、徳が極遠の地にまで及ぶことをいう。祝詞、祈年祭に「馬の爪の至り留まる限り」などとあると同趣。〔坐二玄旗一而化照二船頭之館一レ莚〕前項と同趣。対句を成す。「玄旗」は「紫宸」とひとしく、天子の宮殿の義。略史後紀に「玄旗者石室也。臨二洛水。」とあり、シナの黄帝が洛水のほとりの岩窟に住居されていた時、鳳凰が図をくわえて来て授けたという故事から、天子の宮殿の意となる。すなわち、宮殿におわしまして、その徳化が極遠の地までを照らす意。「船云々」も、祝詞、祈年祭に「舟の艫の至り留まる極み」などとあると同趣。
寛本は「船」を「u」に誤る。〔日浮重レ暉、雲散非レ烟〕日輪は天空に出現して、いよいよ光輝を増し、雲は散じて煙ではない。すなわち妖雲散じて慶雲となる意。元明天皇の聖徳を仰ぐ意の賛辞。
田中孝顕 注釈
※ このページはフレーム構成になっています。
左側にメニューが表示されていない方は、下記URLをクリックしてください。
http://www.umoregi.jp/koten/kojiki/