以下の丸山林平「定本古事記」は、同氏の相続人より、SSI Corporationが著作権の譲渡を受けたものである。
丸山林平「定本古事記」
- 中巻 -
【 崇神天皇 】
原 文
時、天皇、答詔之、此隅爲、在二山代國一我之庶兄建波邇安王、起二邪心一之表耳。【波邇二字、以レ音。】伯父、興レ軍、宜行。來副二丸邇臣之督日子國夫玖命一而虔時、來於二丸邇坂一居二忌瓮一而罷往。於レ是、到二山代之和訶羅河一時、其建波邇安王、興レ軍待蛹、各中挾レ河而對立相挑。故、號二其地一謂二伊杼美。【今謂二伊豆美一也。】爾、日子國夫玖命、乞云、其廂人先忌矢可レ彈。爾、其建波邇安王、雖レ射不レ得レ中。於レ是、國夫玖命彈矢隅、來射二建波邇安王一而死。故、其軍悉破而膩散。爾、膊二聽其膩軍、到二久須婆之度一時、皆被レ聽窘而、屎出、懸二於褌。故、號二其地一謂二屎褌。【今隅、謂二久須婆。】樸、蛹二其膩軍一以斬隅、如レ鵜僑二於河。故、號二其河一謂二鵜河一也。亦、斬二│波│布│理其軍士一故、號二其地一謂二波布埋曾能。【自レ波下五字、以レ音。】如レ此徘訖、參上覆奏。
読み下し文
時に、天皇、答へて詔りたまひしく、「此は為ふに、山代国に在る我が庶兄、建波邇安王、邪き心を起せる表にこそあらめ。【波邇の二字、音を以ふ。】伯父、軍を興し、宣行でませ。」と、のりたまひき。即ち丸邇臣の祖日子国夫玖命を副へて遣はしたまひし時に、即ち丸邇坂に忌瓮を居ゑて罷り往にけり。是に、山代の和訶羅河に到れる時に、其の建波邇安王、軍を興して待ち遮り、各中に河を挾みて対き立ちて相挑みけり。故、其地を号づけて伊杼美と謂ふ。【今は伊豆美と謂ふなり。】爾に、日子国夫玖命、乞ひて云ひけらく、「其廂の人先づ忌矢を弾つべし。」と、いひき。爾、其の建波邇安王、射しかども中つるを得ざりき。是に、国夫玖命の弾てる矢は、即ちに建波邇安王を射て死しぬ。故、其の軍悉に破れて逃げ散けぬ。爾に、其の逃ぐる軍を追ひ迫めて、久須婆の度に到れる時に、皆迫めらえ窘みて、屎出で、褌に懸りけり。故、其地を号づけて屎褌と謂ふ。【今は久須婆と謂ふ。】樸、其の逃ぐる軍を遮りて斬りしかば、鵜の如く河に浮かびけり。故、其の河を号づけて鵜河と謂ふなり。亦、其の軍士を斬り波布理し故に、其地を号づけて波布理曽能と謂ふ。【波より下の五字、音を以ふ。】かく平け訖へて、参上りて覆奏しけり。
丸山解説
〔我之庶兄〕「我」は「汝」の誤りと、記伝言う。誤りというよりは、「我」を対称代名詞と見てもよい。今日でも方言で「われはどこへ行って来たか」などと言う。しかし、今は記伝の読みに従って「な」と訓ずることとする。すなわち、大豐古命と建波邇安王とは異母兄弟であり、崇神天皇が建波邇安王を「わが庶兄」と言われるはずがないからである。これで見ると、建波邇安王は大豐古命より年長であったらしい。〔表〕「しるし」は、上にある少女の歌った童謡をさす。象徴。表象。シンボル。〔伯父〕崇神天皇は開化天皇の皇子であるから、孝元天皇の皇子たる大豐古命は、崇神天皇の「伯父」に当たる。前々項参照。〔丸邇臣〕既出。
田中孝顕 注釈
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