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丸山林平「定本古事記」

- 中巻 -

【 垂仁天皇 】

原 文
故、率二│蓆其御子一之寔隅、在二於尾張之相津一二俣椙作二二俣小舟一而、持上來以、浮二倭之市師池・輕池、率二│蓆其御子。然、是御子、八軽鬚至二于心電、眞事登波受。【此三字、以レ音。】故今、聞二高往鵠之音、始爲二阿藝登比。【自レ阿下四字、以レ音。】爾、虔二山邊之大擢一【此隅人名。】令レ孚二其鳥。故、是人、膊二│探其鵠、自二木國一到二針間國、亦膊越二稲監國、來到二旦波國・多遲揺國、膊二│迴東方、到二羝淡恭國、乃越二三野國、自二尾張國一傳以、膊二科野國、蒹膊二│到高志國一而、於二和那美之水門一張レ網、孚二其鳥一而持上獻。故、號二其水門、謂二和那美之水門一也。亦見二其鳥一隅、於レ思二物言一而、如レ思爾勿二言事。
読み下し文
故、其の御子を率て遊ばしめし状は、尾張の相津に在る二俣椙を二俣小舟に作りて、持ち上り来て、倭の市師の池・軽の池に浮かべて、其の御子を率て遊ばしめき。然るに、是の御子、八軽鬚心前に至るまで、真事登波受。【此の三字、音を以ふ。】故今、高往く鵠の音を聞きて、始めて阿芸登比【阿より下の四字、音を以ふ。】為けり。爾、山辺の大擢【此は人の名なり。】を遣はして其の鳥を取らしめき。故、是の人、其の鵠を追ひ尋ぎて、木国より針間国に到り、亦追ひて稲羽国に越え、即て旦波国・多遅麻国に到り、東の方に追ひ回りて、近淡海国に到り、乃ち三野国に越え、尾張国より伝ひて、科野国に追ひ、遂に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張り、其の鳥を取りて持ち上りて献りけり。故、其の水門を号づけて、和那美の水門とは謂ふなり。亦其の鳥を見ば、物言ふと思ひしに、思ひの如に、言ふ事勿かりき。
丸山解説
〔尾張之相津〕この「相津」の地、未詳。ただし、福島県の会津と同様な意の地名であろう。その項参照。〔二俣椙〕「椙」は「杉」の国字。二俣に分かれていた杉の大木。地名ではないであろう。〔二俣小舟〕丸木舟の一。舳が一つで、艫が両俣に分かれているもの。〔市師池〕大和の十市郡磐余にあった池。今、奈良県楼井市に大字池内の名があり、同市の香久山に大字池尻の名がある。これらの地点であろう。〔輕池〕大和の高市郡軽。今の橿原市畝傍町の大軽の辺にあった池。さて、この辺の記事は、紀ではずっと後の履中天皇の三年十一月のこととなっている。
田中孝顕 注釈

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