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丸山林平「定本古事記」

- 中巻 -

【 倭潼命 】

原 文
於レ是、天皇、惶二其御子之潼荒之菷一而、詔之、西方有二熊曾潼二人。是不レ伏无レ禮人等。故、孚二其人等一而虔。當二此之時、其御髪結レ額也。爾、小碓命、給二其姨倭比賣命之御衣・御裳、以レ劔納二于御懷一而幸行。故、到二于熊曾潼之家、見隅、於二其家邊、軍圍二三重、作レ室以居。於レ是、言三│動爲二御室樂、設二│備食物。故、蓆二│行其傍、待二其樂日。爾、臨二其樂日、如二童女之髪、梳二│垂其結御髪、燮二其姨之御衣・御裳、蝉成二童女之姿、交二│立女人之中、入二其室触。爾、熊曾建兄弟二人、見二│感其孃子、坐二於己中一而盛樂。故、臨二其酣一時、自レ懷出レ劔、孚二熊曾之衣衿、以レ劔自二其胸一刺艷之時、其弟潼、見畏膩出。乃膊二│至其室之梯本、孚二其背、皮レ劔自レ尻刺艷。爾、其熊曾潼白言、莫レ動二其刀。僕有二白言。爾、暫許押伏。於レ是、白言、汝命隅誰。爾詔、吾隅坐二纏向之日代宮、館レ知二大八嶋國、大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子、名倭男具那王隅也。意禮熊曾建二人、不レ伏無レ禮聞看而、孚二│殺意禮一詔而虔。爾、其熊曾潼白、信然也。於二西方、除二吾二人、無二潼淮人。然、於二大倭國、環二吾二人一而潼男隅坐豆理。是以、吾獻二御名。自レ今以後、應レ稱二倭潼御子。是事白訖、來如二熟瓜一振拆而殺也。故、自二其時一稱二御名、謂二倭潼命。
読み下し文
ここに、天皇、其の御子の潼く荒き情を惶みまして、詔りたまひけらく、「西の方に熊曽潼二人有り。是は伏はず礼无き人等なり。故、其の人等を取れ。」と、のりたまひて遣はしたまひき。此の時に当たりて、其の御髪を額に結はせたまへり。 爾に、小碓命、其の姨倭比売命の御衣・御裳を給はり、剣を御懐に納れて幸行しき。故、熊曽潼の家に到りて見たまへば、其の家の辺に、軍三重に囲み、室を作りてぞ居りける。ここに、御室楽為むと言ひ動みて、食物を設け備へたりき。故、其の傍を遊行きて、其の楽する日を待ちたまひき。爾に、其の楽の日に臨りて、童女の髪の如、其の結はせる御髪を梳り垂れ、其の姨の御衣・御裳を服して、既に童女の姿に成りて、女人どもの中に交り立ちて、其の室内に入り坐しき。爾に、熊曽潼の兄弟二人、其の嬢子を見感でて、己が中に坐せて、盛りに楽げたり。故、其の酣なる時に、懐より剣を出だし、熊曽の衣の衿を取りて、剣もて其の胸より刺し通したまひし時に、其の弟潼見畏みて逃げ出でたり。乃ち其の室の梯の本に追ひ至りて、其の背を取らへ、剣もて、尻より刺し通したまひき。爾に、其の熊曽潼、白言しけらく、「其の刀をな動かしたまひそ。僕白言すべきこと有り。」と、まをす。爾、暫許して押し伏せたまふ。ここに、白言しけらく、「汝が命は誰にてますぞ。」と、まをしければ、爾ち詔りたまひけらく、「吾は纏向の日代の宮に坐しまして、大八島国を知しめす大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王なり。意礼、熊曽建二人、伏はず、礼なしと聞看して、意礼を取殺れと詔りたまひて遺はしたまへり。」と、のりたまふ。爾に、其の熊曽潼、白しけらく、「信に然まさむ。西の方に、吾ら二人を除きては、潼く強き人なし。然るに、大倭国には、吾ら二人にも益して、潼き男は坐しけり。ここをもて、吾御名を献らむ。今より以後は、倭潼御子と称へたまふべし。」と、まをす。この事を白し訖へたれば、即ちに孰瓜の如、振り拆きて殺したまひき。故、其の時よりぞ、御名を称へて、倭潼命とは謂しける。
丸山解説
〔熊曾潼〕くまそたける。「潼」は「健」の省字。紀は「梟帥」に作る。「猛る」の終止形が名詞となった語。「すまふ」「かげろふ」「きかふ」などの類。「勇猛な夷族の械長」の意。「くまそ」は、古代、九州の南部に居住していた勇猛な種族およびその地方の称。隼人も、この種族であろうという。紀は「熊襲」に作る。熊の如く猛く、人を襲う義とも、地名から起るともいう。
今も肥後国に「球磨郡」「球磨川」「熊本」などの地名がある。また、大隅国に「囎唹郡」があり、「日向の襲の高千穂の峰」などもある。したがって、地名に起るというのが通説になっているが、上代語では、勇猛の意をもって「熊」の語を冠することが多いから、いちがいに「勇猛な襲族」の説を否定することもできぬ。
田中孝顕 注釈

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