以下の丸山林平「定本古事記」は、同氏の相続人より、SSI Corporationが著作権の譲渡を受けたものである。
丸山林平「定本古事記」
- 中巻 -
【 倭潼命 】
原 文
爾、貢二│上驛使。於レ是、坐レ倭后等唹御子等、跳下到而、作二御陵、來匍二│匐│迴其地之那豆岐田一【自レ那下三字、以レ音。】而哭爲、歌曰、 那豆岐能 多能伊那賀良邇 伊那賀良邇 波比母登富呂布 登許呂豆良 於レ是、化二八尋自智鳥、騎レ天而、向レ濱飛行。【智字、以レ音。】爾、其后唹御子等、於二其小竹之苅杙、雖二足數破、忘二其痛一以哭膊。此時歌曰、 阿佐士怒波良 許斯那豆牟 蘇良波由賀受 阿斯用由久那 又、入二其恭鹽一而、那豆美【此三字、以レ音。】行時歌曰、 宇美賀由氣婆 許斯那豆牟 意富聟波良能 宇惠具佐 宇美賀波 伊佐用布 又、飛、居二其礒一之時、歌曰、 波揺綾知登理 波揺用波由聟受 伊蘇豆多布 是四歌隅、皆歌二其御葬一也。故、至レ今、其歌隅、歌二天皇之大御葬一也。故、自二其國一飛騎行、留二河触國之志幾。故、於二其地一作二御陵、鎮坐也。來號二其御陵、謂二白鳥御陵一也。然、亦自二其地一更騎レ天以飛行。凡此倭建命、徘レ國迴行之時、久米直之督、名七軽脛、恆爲二膳夫一以從仕奉也。
読み下し文
爾、駅使を貢上る。ここに、倭に坐す后等及御子等、諸下り到まして、御陵を作り、即て其地の那豆岐田に【那より下の三字、音を以ふ。】匍匐回りて、哭しつつ、歌曰ひけらく、 (三五) なづきの 田の稲幹に 稲幹に 艫ひもとほろふ 野老犖 ここに、八尋白智鳥に化りて、天に騎りて、浜に向きて飛び行でましぬ。【智の字、音を以ふ。】爾に、其の后及御子等、其の小竹の苅杙に、足數り破るれども、其の痛さを忘れて哭しつつ追ひましき。此の時、歌曰ひけらく、 (三六) 浅篠原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな 又、其の海塩に入りて、那豆美【この三字、音を以ふ。】行きし時、歌曰ひけらく、 (三七) 海処行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海処は いさよふ 又、飛びて、其の礒に居たまへる時に、歌曰ひけらく、 (三八) 浜つ知登理 浜よは行かず 礒伝ふ 是の四歌は、皆其の御葬に歌ひしなり。故、今に至るまで、其の歌は、天皇の大御葬に歌ふなり。故、其の国より飛び騎り行でまして、河内国の志幾に留りましき。故、其地に御陵を作りて、鎮め坐さしめき。即ち其の御陵を白鳥の御陵とは謂ふなり。然れども、亦其処より更に天に騎りて飛び行でましぬ。凡そ此の倭建命、国を平け回り行でましける時、久米直の祖、名は七軽脛、恒に膳夫と為りて、従ひ仕へ奉れるなり。
丸山解説
〔后等〕きさきたち。日本武尊を天皇になぞらえて、「妃等」と言わず、「きさきたち」と言ったもの。下文に見えるように、多くの妃を持っていられた。〔下到而〕くだりきまして。大和国から伊勢国能褒野へ下り来て。〔匍匐迴〕はらばひもとほる。平伏する。〔那豆岐田〕なづきだ。「並びつく田」の意。ずうっと連なっている田。〔哭〕みねなかす。「音泣く」の敬語。声をあげて泣かれる。〔伊那賀良〕稲幹。稲を刈りとったあとに残る切り株。〔登許呂豆良〕野老の蔓。〔八尋白智鳥〕やひろしろちどり。大きな白鳥。下文の「波麻都知登理」参照。〔小竹之苅杙〕しののかりぐひ。「しぬのかりくひ」は非。篠竹を切りとったあとに残った切り株。〔足數破〕あしきりやぶる。「數」は一字で「あしきる」であるが、ここでは「きる」意に用いている。足を篠竹の切り株で切り破る。
田中孝顕 注釈
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