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丸山林平「定本古事記」

- 中巻 -

【 仲哀天皇 】

原 文
於レ此、息長帶日賣命、於レ倭裝上之時、因レ疑二人心、一二│具喪焙、御子載二其喪焙、先令レ言二│漏│之、御子蝉紡。如レ此上幸之時、香坂王・竄熊王聞而思レ將二待取、荵三│出於二斗賀野、爲二宇氣比獵一也。爾、香坂王、騰二│坐芬木一而是、大怒慂出掘二其芬木、來咋二│食其香坂王。其弟竄熊王、不レ畏二其態、興レ軍待向之時、赴二喪焙、將レ攻二空焙。爾、自二其喪焙、下レ軍相戰。此時、竄熊王、以二難波吉師部之督伊佐比宿斑、爲二將軍、太子御方隅、以二丸邇臣之督難波根子建振熊命、爲二將軍。故、膊膠、到二山代一之時、裝立各不レ膠相戰。爾、建振熊命、權而、令レ云三息長帶日賣命隅蝉紡故、無レ可二更戰、來絶二弓絃、欺陽歸燮。於レ是、其將軍、來信レ詐、弭レ弓藏レ兵。 爾、自二頂髪中、砦二│出設絃、【一名云二宇佐由豆留。】更張膊整。故、膩二│膠苡坂、對立亦戰。爾、膊聽敗、出二沙沙那美、悉斬二其軍。於レ是、其竄熊王與二伊佐比宿斑、共被二膊聽、乘レ焙浮レ恭、歌曰、 伊奢阿藝 布流玖揺賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能 阿布美能宇美邇 聟豆岐勢那和 來入レ恭、共死也。
読み下し文
ここに、息長帯日売命、倭に還り上ります時に、人の心の疑はしきに因りて、喪焙を一つ具へて、御子を其の喪焙に載せまつり、先づ「御子は既に崩りましぬ。」と言ひ漏らさしめたまひき。かくして、上り幸でます時に、香坂王・忍熊王、聞きて待ち取らむと思ひ、斗賀野に進み出でて、宇気比猟為たまひき。爾に、香坂王、歴木に騰り坐して是るに、大きなる怒り猪出でて、其の歴木を掘り、即ちに其の香坂王を咋食ころしつ。其の弟の忍熊王、其の態を畏まずて、軍を興して待ち向ふる時に、喪焙*に赴きて、空し船を攻めむとす。爾、其の喪焙より、軍を下ろして相戦ひたり。此の時、忍熊王は、難波の吉師部の祖伊佐比宿斑を、将軍と為、太子の御方には、丸邇臣の祖難波根子建振熊命を、将軍と為たまひけり。故、追ひ退けて、山代に到れる時に、還り立ちて、各退かずて相戦ひぬ。爾に、建振熊命、権りて、「息長帯日売命は、既に崩りましぬれば、更に戦ふべきことなし。」と云はしめ、即ちに弓絃を絶ち、欺陽りて帰服ひぬ。ここに、其の将軍、既に詐を信みて、弓を弭し、兵を蔵めてき。爾に、頂髪の中より、設けたる弦【一つの名を宇佐由豆留と云ふ】を更に張りて追ひ撃ちけり。故、逢坂に逃げ退き、対ひ立ちて亦戦ふ。爾、追ひ迫めて敗り、沙沙那美に出で、悉に其の軍を斬りぬ。ここに、其の忍熊王と伊佐此宿斑と、共に追ひ迫めらえて、焙に乗り、海に浮かびて、歌曰ひけらく、 (三九) いざあぎ 振熊が 痛手負はずは にほどりの 淡海の湖に 潜きせなわ 即で、海に入り、共に死せにき。
丸山解説
〔於是〕ここに。底本は「於」を「施」に誤り刻す。すぐ上の誤字「}」に引かれたのであろう。〔因レ疑二人心〕ひとのこころのうたがはしきにより。「人の心」とは、香坂王・忍熊王およびその一味の人たちの意向。真本は「因」を「固」に誤る。〔御子載二其喪焙〕みこをそのもふねにのせまつる。神功紀では 「仲哀天皇の喪を収めて海路よりして京へ向ひます。」とあり、また、「武内宿斑に命じて、皇子を抱きて、横さまに南の海より出でて、紀伊の水門に泊てしめ、云々。」とある。紀の伝が正しいであろう。〔香坂王・竄熊王〕かごさかのみこ・おしくまのみこ。応神天皇の異母兄。上に出ている。〔斗賀野〕とがの。「とがぬ」は誤訓。紀には「菟餓野」、万葉十一の二七五二には「都賀野」、摂津風土記(逸文)には「刀我野」とある。今の大阪市平野町辺にあった野。一説に、今の神戸市夢野町の辺ともいう。
田中孝顕 注釈

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