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丸山林平「定本古事記」

- 下巻 -

【 允恭天皇 】

原 文
天皇、初爲レ將レ館レ知二天津日繼一之時、天皇、辭而詔之、我隅有二一長病、不レ得レ館レ知二日繼。然、大后始而、跳俑等、因二堅奏一而乃、治二天下。此時、新良國王、貢二│荵御調八十一艘。爾、御調之大使、名云二金波鎭漢紀武。此人深知一藥方。故、治二│差帝皇之御病。於レ是、天皇、愁二天下氏氏名名人等之氏姓忤蔬一而、於二味白檮之言八十婆津日電、居二玖訶瓮一而、【玖訶二字以レ音。】定二│賜天下之八十友茆氏姓一也。樸、爲二木梨之輕太子御名代、定二輕部、爲二大后御名代、定二刑部一也。爲二大后之弟田井中比賣御名代、定二河部一也。天皇、御年漆拾捌歳。御陵在二河触之惠賀長枝一也。
読み下し文
天皇、初め天津日継知しめさむと為し時に、天皇、辞びて詔りたまひけらく、「我は一長へたる病しあれば、日継知しめすを得じ。」と、のりたまひき。然れども、大后を始めて、諸卿等、堅く奏したまへるに因りてぞ、天の下知しめしける。此の時、新良の国王、御調八十一艘を貢進れり。爾に、御調の大使、名は金波鎮漢紀武と云ふ。 此の人、深く薬の方を知れり。故、皇帝の御病を治め差しまつりぬ。ここに、天皇、天の下の氏氏・名名の人等の氏・姓の忤ひ過てることを愁ひまして、味白檮の言八十禍津日の前に、玖訶瓮【玖訶の二字、音を以ふ。】を居ゑて、天の下の八十友の緒の氏・姓を定め賜ひき。又、木梨之軽太子の御名代と為て、軽部を定めたまひ、大后の御名代と為て、刑部を定めたまひ、大后の弟田井中比売の御名代と為て、河部を定めたまひき。この天皇、御年漆拾捌歳。御陵は河内の恵賀の長枝に在り。
丸山解説
〔天津日繼〕あまつひつぎ。上巻で述べてある。〔辭〕いなぶ。拒否する。辞退する。記伝は、この上の「天皇」の字を「読むべからず。煩はし。」と言うが、本書は、読むこととする。〔詔之〕のりたまひけらく。延本は「之」を「云」に作る。字形による誤写であろう。いま、真本・底本等に従う。〔一長病〕うちはへたるやまひ。真本には「一」の字無し。ここの訓は記伝の説に従う。「一つの長き病」などと訓じては、国語にならぬ。「長く久しく、うち延へたる病」の意。「うち延ふ」は、「つづく」義。〔大后〕おほきさき。皇后。上にしばしば出ている。真本・延本等「太后」に作る。それには従わぬ。下も同じ。また、この辺の文字づかい、真本は誤りに満ちている。わずらわしいから、すべてとりあげない。
田中孝顕 注釈

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