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丸山林平「定本古事記」

- 下巻 -

【 雄略天皇 】

原 文
天皇、幸二│行吉野宮一之時、吉野川之濱有二童女。其形姿美麗。故、婚二是童女一而、裝二│坐於一レ宮。後更亦、幸二│行吉野一之時、留二其童女之館一レ蓚、於二其處一立二大御寞床一而、坐二其御寞床、彈二御琴、令レ為レ蛹二其孃子。爾、因二其孃子之好蛹、作二御歌。其歌曰、 阿具良韋能 加微能美弖母知 比久許登爾 揺比須流袁美那 登許余爾母加母
読み下し文
天皇、吉野の宮に幸行でませる時に、吉野川の浜に童女あり。其の形姿美麗しかりき。故、この童女と婚ひして、宮に還り坐しぬ。後に更に亦、吉野に幸行でませる時に、其の童女と遇へりし所に留りまして、其処に大御呉床を立て、其の御呉床に坐しまして、御琴を弾きたまひ、其の嬢子に蛹はしめたまひけり。爾、其の嬢子の好く蛹へるに因りて、御歌作みしたまひけり。其の歌に曰りたまひけらく、 (九六) あぐらゐの 神の御手もち 弾く琴に 舞ひするをみな とこよにもがも
丸山解説
〔吉野〕えしの。「えしぬ」は誤訓。「よしの」ともいう。万一の二七に「芳野よく見よ、よき人よく見つ」とある。天智紀十二年十二月の長歌には「曳之奴」とある。「よい野」の意の地名。大和国の吉野川を中心として、北は竜門・鷹取から南は犖城山につづく山脈を境として、南にわたる山地および吉野川流域一帯の地域の称。応神天皇以来、しばしば行幸があり、また、離宮があった。ここの山は、さくらの名所であると共に、後醍醐天皇が、この地に遷都されてから五十余年間、帝都となった地。文学史のうえでは、この約六十年を「吉野時代」と呼ぶ。「吉野の宮」は、この地にあった離宮。
田中孝顕 注釈

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