悪い場の雰囲気を変える秘策>(その後、結構役立った)
(以下の文は推敲していないので読みずらい)
もっぱら給与不足が原因で、私が国家公務員を辞めて給与の高い私企業(大手不動産会社)に入ったのちの話である。
私は起業を目指していたので、公務員では給与が安く、いつまで経っても資本がたまらなかったのだ。
そもそも、公務員になろうとしたのも、倒産しないから、起業資金を安定的に貯められるだろう、といういささか社会というものをまだ知らない時分の安易な考え方から来たものである。
しかし私は学生時代の不勉強が祟って、中級試験(短大卒程度、と当時の受験案内には書いてあった)以外は歯が立たなかった。したがって、キャリアとなるための必須条件である上級試験受験は最初から論外であった。
話が前後するが、しばらく公務員試験のときの話を続ける。
生まれて初めて詰め込みの受験勉強を一週間ほどやって、見事合格したところ、あちこちの役所から面接を受けないか、という誘いの手紙が来る。林業試験場などという当時の農林省の外局からも来た。
結局、総理府(現在の内閣府)の公正取引委員会事務局が格好よさそうだったので、そこを選び、面接を受けた。
面接官の質問は、たいした内容ではなかったが、「学生時代、記憶に残ることは?」と聴かれたので、友人と二週間掛けて北海道旅行をしたことを述べた。そこでどういうことを学んだか、というちょっとクセ球が来たとき、私は咄嗟に「人間関係です」と応えたところ、数人いる面接官は一斉に「よく言った」という感じで「ホオ~」と感嘆(?)の声をあげた(今でもその場の印象が残っている)ので、これで合格だ、という確信を持った。確かに、いかにもお利口さん的回答ではあった。
実際、友人A・B(AB間には交友がない)と一度目は私とA、二度目は私とBとで二週間、7000円で国鉄(船・バス含む)乗り放題というチケットを買い、前者のときはユースホステルを使い、後者のときはリュックでキャンプという方法で北海道をほぼ一周した。
ところが二回とも、帰路は北海道内で(友好裡に)別れ、それぞれ一人で帰途についた。性格の不一致(笑)とでもいおうか、周遊して疲れが出てくると、例えば「お前のその一回、え?って聞き返すの、やめろよ」とか、「臭えな、屁はテントの外でしろよ」とか、つまらない言葉の棘が口から出て、それが蓄積していく。で、結局、「俺はもう1カ所、回りたいところがあるから」などと言って、別れるのである。
それでもAとは旅行が終わった後、何事もなかったように付き合ったが、Bとはそれっきりだった。いや、一度Bは富士山の山頂から葉書をくれたのだが、私が「嫌み」な返信をしたため、それで友人関係は終わったのである。従ってこの場合はその非は私にあり、今でも悔やまれる。
さて、以下がメインの話で、給与が安い公務員を辞め、給与のいい大企業に中途入社試験を受けた。受験者は最初から諦める気分になれるほどで、東京の武蔵工業大学の大講堂が満席であった。
ところが、まあ、お役人という経歴が面接したお偉方の関心を呼んだのだろう、見事合格して、入社した。
その会社は、入社してから程なく、二級建築士試験と宅地建物取引主任者試験を一般社員にも受けさせることを決めたらしい。私も企画部に所属していたので、別に私が家を時分で建てるわけではなかったが、受験するはめになった。
ところが、これはこの会社に今でも申し訳なく思っているのだが、とにかく私の入社動機は起業することにあったので、試験勉強をする気分が起きない。それに、中途入社組は大卒後、すぐその会社に入ったいわゆるプロパー組とは、どこか明らかに異なるものがあった。
たとえて言えば、公務員で上級組と中級組があるのと同じ処遇を受けているのに気づいた。幾ら頑張っても、決して社長にはなれない、という被差別感がそこにはあったのだ(ま、これはイイワケか)。
というわけで、二級建築士試験の受験は最初から放棄。宅地建物取引主任者試験(いわゆる宅建)のみは、勉強はまったくせずに試験場に臨んだ。というのも、当時の試験は六法全書を見てもいいことになっていた。
私は公取時代、六法全書ばかりめくっていた(公取は独禁法の運用機関である)ので、どこの何を見れば目的とする項目に達することが出来るか、慣れていたので、六法全書を見てもいいのなら、勉強することもあるまいとタカをくくっていた。そして事実、当時はすべて六法全書で問題の解答を探せばいい問題ばかりなので、簡単に合格した。
それはどうでもいいことなのだが、私は試験当日になって、受験票に、学校を卒業したことを証明するものを貼らなければならないことを知った。しかし、早く家を出なければ試験に間に合わないので、ようやく大学の卒業証書を見つけ出し、コピー機は当然身近になかったのでその証書を直接受験票に貼り付けた。
受験票はやけに大きい卒業証書に丸め込まれた状態となった。そうしてようやく受験地である埼玉県の東京国際大学にたどり着いた。受験生は蛇のようにウネウネと列をなしている。とても暑い夏の日だったように思う。
宅建の試験業務は東京都の職員が担当しているらしかった。元公務員の私は、公務員の身の運び方と私企業の社員の身の運び方、いわば運身のわづかな違いがどこがどうというのでもないのだが分かった。
とにかく職員は殺気だっている。言葉遣いも乱暴である。「はい、左に寄って。もっと左!」といった調子である。ともあれ乱雑だった。
ようやく私の番になった。私は「はい」といって受験票を係官に手渡した。と、しばらく数名の係官は呆然と私の受験票を見ていたが、突然、かれらは和(なご)んだ様子になり、ニコニコしだし、親切になった。
私の受験票を受け取った中年の係官は、これまで他の受験者に喋っていたのとはまるで違う話し方で、「あの~、別に本物の卒業証書を貼らなくてもいいんですよ」
私「時間がなかったんです」
係官「とにかく、四年間かけてようやく頂いた卒業証書ですから、大切にしなければ行けませんよ。よわったな、これは、ハハハ」
別の若い係官は、その受験票をどこかに持って言った。そして、どうやら念を入れて注意深く受験票と卒業証書を切り離したらしく、しかも卒業証書はコピーまでして持ってきて、「じゃ、この証書は大切に持ち帰って下さい」と私に戻した。
私と対応した係官は、コピーされた証書を受け取って、自分でのり付けをし、その間、私でストップした受験生の列は、別の係官が対応していたが、彼らはお互いに楽しそうに声を交わし、受け付け事務は効率よく進んでいった。
一体、何が起きたのだろう。彼らは受付のスタンプを押したあと、受験会場がどこにあるかまで、親切に教えてくれたのである。
むろん「この馬鹿が」という態度ではなかった。そこには、何か一つの権威、と彼らが漠然と思っているものを糊付けしてしまった私の行為に対して、「愉快」と思ったに違いない。思えば、係員の中には高卒の職員も多かったであろう。だいたい、このような場にかり出されるのはそういう人たちなのだ。