日本語の語源は日本語? あじさい
何人かの人々の本に、「日本語の語源は日本語で解ける。なにも遠くのタミル語など持ち出す必要はない」という、タミル語に関する嫌悪感がはっきりとにじみ出ている文章を目にしたことがある。
こういう人たちは、日本語は孤立語だとでも思っているのだろうか。また、何でも日本語で語源が分かるとでも思っているのだろうか。ともあれ、わざわざ自ら井の中に飛び込んで、井の中の蛙になる必要はあるまい。
そういえば、大野先生は、何かのとき、耳打ちでもするように「田中さん、言語学者がタミル語説に反対する理由の一つは、クレオール語説だからですよ、クレオールは奴隷の言葉ですから、そう思い込んじゃって…」と言われたことがあった。
なるほど、そう言われてみれば、日本語タミルクレオール語説は、タミル人が日本列島人を奴隷化したために生じた言葉と言えなくもない。少なくとも、今日のクレオール語の殆どは、近世収奪型植民地主義の産物である。
しかし、古代では、近隣諸国同士ならともかく、南インドと日本では距離が離れ過ぎており、日本のどこかの箇所を植民地にするのは、困難を極めるであろう。したがって、日本がタミル人によって植民地化されることは、物理的に無理があるように思える。やはり、通商によるものと見るべきであろう。
タミル人と日本人の間のDNAの一致は殆どない。しかし、日本人という枠ではなく、縄文人という、より狭い枠で対比させれば、何らか有意な相関が見出されるかも知れない。
ところで、日本語の語源は日本語で解けるという研究者たちは、とんでもない解釈を屡々する。例えば「ものもらい」だが、これは「目乞食」という言葉があるように、乞食と何らかの関連がある、などと真面目に論じている。しかし、タミル語からすれば、「ものもらい」は「目の腫瘍(モラヒ)」である。これは「ささがねの蜘蛛」にも書いたことだが、「メのもらい」から「物貰い」という連想が働いたものと考えられる。
「あじさい」は日本固有種である。したがって、縄文時代にもこの植物は存在し、何らかの名称を持っていたはずだが、廃れたのであろう。この語は、クレオールタミル語で、本来は「あじ咲き」と言っていたはずである。
つまり、紫陽花の花は球状に咲く。タミル語Az-iには球体(circle);環状に並んだもの(ring)という意味がある。なおここで、大文字のAは長音のaを意味する。ただ、日本語との対応では、長音単音の区別はない。
「咲く」はタミル語ak-aiの古形*cak-aiと対応し、「咲く(to blossom)」という意味がある。したがって、「紫陽花」は「球形に咲くもの」という意味であることが分かる。
これを日本語だけで処理しようとすると、(以下「日本国語大辞典第二判より引用)
「アヅサヰの約転。アヅはアツ(集)、サヰはサアヰ(真藍)の略〔大言海〕とか、
アヂサヰ(味狭藍)の義。アヂ(味)はほめることば、サヰ(狭藍)は青い花の色をいう〔万葉代匠記・和字正濫鈔・万葉集類林・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄〕、あるいは
アダアヰの略〔万葉考〕
など、かなり無理な語源解釈となってしまうのである。